第二章 2018 12 発症
私の場合は、搬送中の救急車内で隊員の方に「〇〇病院へ」と意思表示できました。脳出血は突然襲ってきます。倒れた時に意識を保てるかどうか、ひとりの時か人前か、さらに運転中かどうかなど、さまざまなケースが考えられます。どんな状況であっても職場での事前の意思表示、住居や自家用車内に「もしもの場合、●●病院へ」というカード掲出があれば、万一の時に生還への可能性を少しでも高めることができます。
2018年11月30日朝。いつものように一日が始まり、いつものように仕事をこなす中、急な外出となり駐車場へ向かった。車のドアを開けたところで忘れ物に気づきオフィスにUターン。すると業務LINEが舞い込み「めんどくせぇな」と立ったまま返信を始めたとき右半身が硬直した。最初は「吊っただけ」と思ったが、筋肉が弛緩していることがわかり、「これはただ事ではない」と冷や汗が吹き出した。
なんとか椅子に腰掛け態勢を立て直そうとしたが、身体の右がまるで鉛のように重くコントロール不能、そればかりか血液が凝固したように感じる。脳出血発症の瞬間だった。意識が薄らいでいく。まだ喋る力が残っていたので隣席の女子社員に「救急車、呼ぼうかな」と声をかけた。…「はい、すぐ呼びます」。
その女子社員は優れた子で、救急車に同乗してくれたばかりか経過時間を記録してくれていた。それによると出動要請から救急車到着まで4分。地域の消防署がたまたま近距離に移転新築していたそうである。到着から収容・出発までがわずか3分。症状、担架搬出ルート、私の体格などをきっちり伝えてくれていたのだ。そこから都市部の基幹病院ERまで20分。渋滞が名物の幹線道路が朝のラッシュタイムを過ぎていたことが幸いだった。都合、救急処置開始まで27分。
脳出血の場合、安定処置の目安は発症から1時間以内とも言われる。私が今こうして生きているのは彼女の迅速な対応のおかげ、つまり人前で倒れたことこそが「分かれ目」だった。・・・こうしてデスマッチのゴングが鳴ったのだ。
気がつくとERだった。全身が動かない。もはや眼球も動かせず、目を開けているつもりだが何も見えなくなっていた。もしかしたら瞼を上げる力を失っていたのかも知れない。だが耳だけはまだ機能していて、服を切り裂くハサミの音、慌ただしい靴音、機械音、何人かの声・・・。「カイトーだね」、「カイトーの準備を」。
後で知ったがカイトーとは開頭のこと。文字通り、頭を開き出血を取り除くもので、術後記憶言語等に重篤な障害が残るともされる。しかしこのとき自分はカイトーの意味をわかっていない。すると女性ドクターらしい声が聞こえた。
「CTもう一回見せて…やっぱり開頭やめよう。開頭なしでいきましょう」。
そこで意識を失い、次にぼんやりと気がつき視力が蘇ったのは集中治療室。
右脳被殻出血の亀裂は約30mm、漏れた血液は12〜15ccだった。
集中治療室。広い部屋に一人きり。両手首の内側には太い管が埋め込まれている。下着の中にも管が這っている。ベッドの周りは医療機器が囲み、それぞれ不気味な電子音を立てている。身体は固定されており全く動かない。ふと視界の隅に看護師の白衣がちらつき、「すいません」と声をかけた。が、言葉にならない。文字に起こせば「ふぃむしぇむふ」・・・舌も麻痺し失語症になってしまっていた。そればかりではない。記憶が溶けていくような恐怖を感じ始める。集中治療室にいたのは48時間。次第に眼に映るものが湾曲し歪み始め何度も嘔吐。その度、看護師が飛んできて喉奥から吐瀉物をかき出してくれた。
3日目。救急救命棟のナースステーションと直結した特別病棟に移る。左半身はわずかに反応を見せるようになったが、ほぼ全身麻痺のまま。さらに頭の中は胡乱とし、薬のせいか、それとも脳をやられたのかと不安になる。頭の中がまとまらない。そうした記憶障害の症状に加え、嚥下障害を併発してしまっていたため口から食事はとれず、失語症はそのまま。言葉を発しようとしても舌がもつれ思うに任せないので口を開くのがイヤになる。筆談しようにも身体が動かない。病室にひらがな五十音がプリントされているアクリルボードの文字盤が持ち込まれた時は「目線で意志を伝えるしかないのか…」と泣けてきた。
4日目。気力が湧かない。この日試験的に配置された尿瓶が深夜に外れ、ベッドは便の海となる。体の下側がどっぷり浸かってしまったが身体が動かずどうにもならない。指先にナースコールボタンが装着されていたが呼ぶのをやめて身を任せた。汚臭の中、そのまま早朝となる。…気がつくと若い小柄な看護師がひとり、私の身体を無言で動かそうとしている。彼女は応援を呼ばず、たったひとりで私の巨体を動かし衣類とシーツ・マットを取り替えようとしていた。
「このままでいい、何もするな!」と怒鳴る。看護師は優しく「全部変えなきゃ、ずっと我慢してたの?」 「うるせー、俺なんかこのままでいいいんだ」 「・・・・・」 「治る見込みのある奴のとこ行けよ、俺のことなんかほっとけ! 出て行け」。するとその看護師は形相険しく、「ヤケ起こさないで!! あなたは絶対治る。絶対絶対治る。私にはわかる。私が保証する。だからヤケ起こさないで。絶対に負けないで。ヤケ起こすのは弱虫よ!!」。唖然としているこちらを尻目に手際よく全てを取り替えた彼女は立ち去る前に優しい微笑みで振り返った。・・・「ねえ、喋れてたよ。ちゃんと喋れたね」。
5日目。明け方の看護師との一件以来、なんとなく少しの言葉が操れるようになった。ただし舌がもつれ会話の精度は20〜30%程度に過ぎず、焦れば焦るほど舌が追いついてこない。だが何とかギリギリ意志が伝わるように・・・。しかし身体が言うことをきかないためベッドから車椅子への移乗ができず、折角食堂での嚥下障害用のゼリー食を許されたのにベッドに乗せられたまま運ばれる有様だった。食堂に集められる入院患者に自立歩行できる者は一人としておらず、周囲の顔を互いに見回すことで全員がうつむき、楽しいはずの食事時間は暗澹たる空気に包まれている。
電動ベッドを少し起こすと窓の向こうに倉敷の夜景が広がる。ガラスに小さく自分と自分が乗るベッドが反射する。しかし表情造作までは掴みとれない。ふと思った。「病室はもとより、この病棟には鏡というものがない」。なぜだ?
6日目。リハビリテーションが始まった。…あまりやる気も出ないし、血圧が下がらずOT(作業療法)、PT(理学療法)は運動中止となる。個室でのST(口腔療法)は人を馬鹿にしたようなカード形式の認知症テストをやらされたが、これがさっぱり解けない。記憶障害は深刻だった。ベッドに乗せられたリハビリ室から病室への帰り道、押してくれている男性看護師に「トイレ行きたい」と言うと「尿瓶まで持ちませんか?」、「うん」。こうして障害者用トイレで降ろしてもらい一人になった。そこには便器に向かい斜め下につけられている鏡が…。
必死で身体をひねり鏡を覗きこむ。そこにいたのは顔の右半分が弛緩、左半分が緊張…予測以上に醜く変形したアンバランスな顔だった。右は垂れ下がり、自覚のない涙・鼻水・よだれが流れ放題。左は突っ張るように上に向かい、目は吊り口元はひん曲がっている。「まるで化け物だ。終わったな、俺」。
トイレから病室に戻ると、職員からごくごく事務的に「明日退院です。このリストの中から転院先の回復期病院を選んでください」と告げられる。「それから明日の朝に当院の入院費精算となりますので全額ご準備ください」。
マジか?この状況で転院?そこからはしっちゃかめっちゃか。MRIの受診も予定に入れられ疲労困憊。リストの転院先はどこも名前を聞いたことがある程度でさっぱり内実がわからず、最後は病院名の印象だけで選ぶという消極的理由で何となく決めざるを得なかった。自分の知識のなさに辟易しつつ、急性期病院の厳しさを知った。あとはもう根性のみ。身体を引きずりながら荷造りをすませると、色々と悩みがあるにも関わらず泥のように寝た。
7日目。とにかく早く病室を空けろと言う流れで車椅子に乗れないまま退去。看護師に別れも言えないまま「介護タクシーきましたから転院です」…で発症から一週間で急性期を去ることになった。ベッドを押され移動を始めると療法士たちが追いかけて来てくれた。
「良くなったら絶対戻って来てください。今まで戻って来て元気な姿を見せてくれた人いないので」。「最後の言葉は要らんだろう」と久々に心から笑った。
(第三章につづく)