第三章 2018 12 入院(1)
回復期病院は文字通り、回復を期す場所ですが、脳出血患者に対する手術・精密検査の類はありません。成人病処方の投薬こそありますが、脳出血治療に即時効果をもつ医学療法や特効薬はありません。よって医師からは体調維持のための指示こそあれ、具体的な取り組みはリハビリのみになります。その進展は十人十色。これが正解という答えがない以上、自分で動くことも必要になってきます。
ベッドのまま乗せられた介護タクシーは郊外を抜け、転院先の回復期病院へ走る。見上げる車窓からわずかだが見慣れた景色が流れ、あまりの惨めさに涙がこぼれそうになる。当然のことながら転院先の回復期病院に歓迎ムードはなく、淡々とした手続きと手短な説明を終えると古びた病室に案内された。特に診察はせず、そのことを必死に言葉にして問うと「向こうの病院から病状聞いてるから」のひと言だった。診察する気など全くない態度にすら感じられる。そうか、そうなのだ。ここは脳出血患者にとって完治を前提とした医療を提供する場所ではない。麻痺など後遺症の治癒レベルは個人によって異なり、もとより特効薬などない。脳神経外科医が担当として就くが、やってくれることは巡回の内科医から得た処方と医学的知見の伝達がメインであり、最終的には「リハビリがんばってね」ぐらいのものである。入院病棟は昏睡から覚めない患者から交通事故等軽易なリハビリ患者まで、症状によって区分されており、不思議なことにどの病棟も元気そうに見える高齢者(介護保険被保険者)で溢れている。私が収容されたのは行動を抑制される重度患者用病棟である。もっとも抑制されるまでもなく身動きひとつできないが…。「一体どうしたものか、これから俺はどうなるのだろう」・・・憂鬱になり途方に暮れた。「変形した顔は元に戻るだろうか?」、「喋れるようになるのだろうか?」。
ドアがノックされOT(作業療法)、PT(理学療法)、ST(口腔療法)の各療法士が入れ替わりで挨拶に来てくれた。来てはくれたのだが、何もかも理解が追いつかない。最後に担当医が部屋に来た。たどたどしく「治したいんです」と声を絞ると、「治らないよ」と即答、さらに「また歩きたいだとか、そんな夢みたいなこと考えるより、せめて車椅子くらい操作できるようにね」。
リハビリが始まった。が、気は乗らない。個室で行うST(口腔療法)は発生・発音をチェックするが恐ろしいほど明瞭に喋れない。記憶力や学習力が試される知能テストも兼ねているので、自分の脳がダメになったかどうか結果が気になって仕方なかった。「脳が働かないのなら、何やってもムダだ…」。
一方、広々としたリハビリルームで行われるOT(作業療法)とPT(理学療法)はベッドから車椅子に数人の力を借りて乗せられ運ばれ、リハビリルームの作業ベッドに降ろしてもらうだけで気持ちが萎えた。さらに大鏡に映った自分の姿…力なくぶら下がる足首から下や異様に垂れ下がった右肩を見るにつけ「これは…医者の言う通り絶対ムリだ。動くようになるわけがない」。
無気力な数日を過ごした後、ひとりの理学療法士から「どっち利きですか?」と聞かれる。「左」と答えると、しばし考えこんだ後、「なるほど」。「何?」・・・。彼曰く(個人的な考えだが)、左脳の血管が切れた場合、交感神経上、右半身に麻痺など影響が出る。同時に重度の場合、失語症、嚥下障害、記憶障害が表れる。だが例外もあるらしい。生まれつき左利きの場合、50%の確率でそれらを回避できることもあるらしい。彼が療法士として多くの患者と接した経験上の個人統計である。「僕は改善するように思います。まず気持ちを充実させてください。それによって脳が活性します。そうして初めて眠っている部位に指令が届くんです。左利きであることに賭けてみてください」。しかしそう言われても…。
食事は相変わらず味のないゼリーのみ。病棟の談話室でほぼ高齢者の他の患者と一緒にとった。これは嚥下の監視のため。「みんな末期だな」と思った後、「あ、俺もか」。どうにか左手で口に運ぶ。終えると手を上げる。すると介護スタッフが病室まで車椅子を押し運んでくれる。どうも気分は晴れない。
当初の入院生活で最も難儀を極めたのがトイレ。ベッドから車椅子への移乗ができないため、ナースコールをしなければならない。病室のトイレは使用禁止、廊下の先の障害者トイレに運ばれ、監視の下で用を足す…これはキツかった。4ヶ月の入院生活で大便は数えるほど、水分も極力摂らず、小便の回数も減らした。結果的に瓢箪から駒で、入院前からすると20kg痩せ、糖尿病数値は劇的に改善していた。
だが人に見られて用を足すのはどうしても嫌だと、毎夜深夜に自力での車椅子移乗特訓を開始。何度もフロアに顔から落ちたが左半身を駆使して身体を引っ張り上げた。不自由な身体を動かすコツをつかんだ。転ぶ度、死ぬほど痛かったが、おかしなもので「生きている」実感を得た。
ある夜3時間ほどかけて初めて病室トイレに座れたが、精魂尽きおまけに尿意も失せていた。結局明け方に発見・確保され、看護師長から猛烈に怒られた。それだけなら良かったがベッドに柵が設置される要注意患者となってしまった。
1ヶ月ほど経ち新年が近づいてきたが、リハビリは一向に進展しない。そればかりか右手足の鈍痛および神経痛がひどくなる。そんな中、ST(口腔療法)では20個ほどのダイスを使った復元記憶力テストが行われ満点で乗り切る。これはデザインを仕事にしていた賜物のように思う。ともあれ記憶障害を乗り越えた。次の段階は音読テストだった。来る日も来る日も国内外文学を朗読させられた。題材の一つが壺井栄の「二十四の瞳」。
長くなるので割愛して記すが、私は柄にもなくこの作品が好きで、子どもの頃から数限りなく読み返し、小豆島の岬の分教場にも何度も行った。作中人物の名前も皆分かるし、ほとんどの文面も諳んじられる。
「二十四の瞳」がテキストになったことは何かの巡り合わせだったのだろうか。それぞれの時代の自分をよみがえらせながら、それぞれの記憶に手を伸ばしながら切々と読んだ。ナレーターやアナウンサーと放送に取り組んだ記憶もよみがえる。…数日をかけ全編を読み上げた時は作品が描く戦争の悲劇にこちらも療法士も涙ぐんだ。「もう大丈夫ですよ。喋れています。失語症の心配はありません」。
失語症を約1ヶ月がかりでクリアすると俄然自信が湧いてきた。自分の中では、失語症=嚥下障害という確信に近い考え(舌の機能改善)があったので、ゼリー食から通常食への転換を願い出た。しかし主治医は即却下。そうなると、もう食欲云々の問題ではなく…日々のリハビリの成果を形にすることに意地になる。黙っていても何も始まらない。そこでST(口腔療法)療法士の力を借り、院内の片隅にあるX線科の看護師とドクターに嚥下のX線診察予約を取り付けた。
(1)いくつかの食品を用意してもらい、それをサイの目に切る。
(2)それらにバリウムを塗布し、咀嚼し飲み込む。
(3)(2)を動画X線で撮影・データ保存してもらう。
「先生、どうですか?」。
「うん。気管に流れ込むことはないね。嚥下は正しく機能している」。
また一歩前に進んだ。すぐさま主治医に結果を伝えると、何とも言えない顔をして「あ、そう」。何とも味気ないリアクションだったが、しばらくしてついに普通食(但し減塩減カロリー)が用意された。ついでに監視つきの集団食卓ではなく、自室でのひとり飲食も許可された。薄味の献立だったが格別だった。
「どぉ?美味しい?」と顔を見せた馴染みの看護師に「そうでもねえよ(笑)」。
「あら」というので「何?」と聞くと、「笑顔見たのは初めて」。
彼女が去った後、すぐに鏡をのぞきこんだ。今まで気に留めていなかったが、顔面の変形が少し元に戻ったような気がした。筋肉の弛緩と緊張が緩和されたような。感情が顔に出るようになってきた。言葉を取り戻すことが、それに繋がったのかもしれない。
物事がうまく運ぶとは限らない。けれども自分で動かないと後悔が押し寄せる。これが嚥下事件である。
(第四章につづく)