第四章 2019 1 入院(2)
説明のつかない不思議な出来事がありました。夢と現実の中間に現れた思い出の人々・・・・・彼らは私に全ての記憶を取り戻させてくれました。生死をさまよった者は人智を超えた体験をするといいます。その体験をどう生かすか? そこに死から還って来た者の役目があるように思います。
年が明けても根本的な機能回復は思うに任せない。
そんな時、愛用のmac bookが届いた。2ヶ月ぶりである。仕事柄命の次に大切なものだ。代々機種を買い換えて10機目ぐらい、ユーザー歴は30年近くになる。しかもユニバーサルデザインのため、5本の指(片手)で十分使える。「いけるぞ」と思いつつ、メールボックスを開くと200通を越える未読。ごく親しい人にしか病状を伝えていなかったので、ほとんどが職務上のものだった。いくつかに返信しようとしたが、キーボードを前になぜか指が走らない。数時間経過しても動かない。キーボードの打ち方と操作を完全に忘れてしまっていることに気づく。記憶障害は治ってはいなかったのだ。
その夜、震えながら寝た。改めてこの病の恐ろしさを知る。次に目覚めたらより多くのことを忘れ去ってしまう、そんな危惧が現実になる、そう思うと身体は震え続ける。時計の秒針音が煩わしくシーツを頭から被って震えた。どれほど時間がたったろう。ふと気づくと私は以前住んでいたマンションのリビングにおり、制服姿、子どもの頃の娘が「お父さん、ただいま」と抱きついてきた。「おかえり」…懐かしい感触だった。それをきっかけに幼い自分の記憶、例えば縁日に向かう道での母との会話、野球部時代の円陣での会話、グローブ油の匂い、初恋の人の吐息、つないだ手の柔らかさ、別れの電話の言葉・・・瑣末なものも含め、昨日までの数十年の記憶が実に細かいところまで頭の中で一気に逆流した。人生の全てを思い出し、まるで脳が再起動されたような気になり、そして夜が明けた。
これはおそらく医学では説明できないだろう。しかし本当にあったのだ。すぐにmacを立ち上げると、何の問題もなくメールを簡単に返信できた。・・・・・「全部思い出したぞ」。
言葉と記憶さえ戻ればこっちのものと仕事のスケジュール、自宅に保管している業務書類など何がどこにあるか、病室から動かずして一度幽体離脱し、仕事場と自宅を俯瞰で見てきたように、何がどこにしまってあるか全てを言い当てた。それら山のような資料と素材を届けてもらい、仕事を再開。病室は特設オフィスになった。
設定されているリハビリは1日3時間。残り21時間の使い方は患者次第である。一部に規制する動きもあったが、病院開設以来、「Wi-fiよこせ」と言う患者はいなかったらしいし、仕事をおっ始めて「これナースステーションでコピー2部とってきて」などと言う、ツラの皮が厚い脳出血患者もいなかった。一回、職員が遠回しにやめさせようとしてきたが、「病院はずっといる場所ではないですよね。いわば社会復帰に向けての準備をする場所ですよね。生きがいだったり、今後生活をどう形成するかを日々試す場所ですよね」で「わかりましたよ…」。特設オフィスは閉鎖を免れた。だが本音では、成果の出ないOT(作業療法)とPT(理学療法)に限界を感じていた。「世の中には白い杖をついて満員電車で通勤する人もいる。車椅子なのに一線で活躍する人もいる。身体が動かなくたっていきていけるし仕事もバリバリできる」…そう強がってみたのだが…。
強がりは看護師長にはお見通しだった。とある日の昼下がり、病室を訪れた師長は不意に「外いきましょうか?」。そう言えば、前年の12月初頭に転院してから約2ヶ月、一度も外の空気を吸っていなかった。年越しも病室、元旦からリハビリルームに通ったが特に機能は回復せず、仕事をしつつも単調な日々を送っていた。太陽は真上にあったが底冷えのする日だった。
師長は相当多忙だったと思うが、「寒さを感じるのも身体を強くするいい薬よ(笑)」と1時間以上に渡り病院内部と敷地外構を車椅子を押し案内してくれた。自分のいる病院外観を初めて見た。大きなビルディングだが住宅に囲まれ、身を縮め気配を消しているように思えた。最後に本館に戻った師長は普段は立ち入り禁止の屋上に連れて行ってくれた。360%倉敷の街がぐるり見渡せた。もう自分はあの駅、あの店、あの思い出の場所に歩いていくことはないだろう、と思った。「この病院がどこなのか、やっとわかった」と呟くと、師長はそれには答えず、眉を聳やかすようにして車椅子の前に回りこんだ。
「私は病室で仕事をする患者さんを初めて見た。仕方がないけど多くの人はあきらめてしまったり、投げやりになったりする。重い症状の人はそれすら出来ず、辛い日々を過ごしている。リハビリをしようと思ってもできない人もいる。でもあなたはできる。仕事に励む気力を少しだけリハビリに回して。歩いてこの病院を後にできるようにがんばって。」
以後この人は何度も私を救ってくれる。
脳出血で倒れるまでは自分・自分で生きてきた。周囲にも厳しく接し一切の妥協を許さなかった。今の時代ならパワハラで摘発されていたかもしれない。ついぞ人に優しくした覚えはない。仕事仕事仕事・・・・・仕事が全てだった。
仕事のためなら家庭を一切顧みず、上司にも部下にも牙を剥いた。結果として周りは敵だらけになり、家庭も壊れ、悔恨の情を強く持っていた。
倒れたことを「罰」と感じもしたし、「生かされた命」の意味も今後の人生に何をもたらすのか全く見えなかった。
唯一モチベーションとなった思いは、人の世話にならず生きて生きていく…
それに尽きた。
そんな自分の元に病院始まって以来最多という数の見舞いが来てくれた。九州、四国など遠方からの人もいた。発声はまだ完璧でなく顔も変形したままだったが、よく話しよく笑い恥を捨て弱みを見せ、いい時間を過ごした。社会に出て30年で初めて味わうひととき。「それが何よりの治療」という人がいた。初めて知った人の縁の大切さ。こういう仲間がいる限り、この先どうなろうとも生きていくのだと強く思った。
入院して2ヶ月が過ぎようとした頃、PT(理学療法)療法士に平行棒エリアに連れて行かれ、急に「掴まって立ってみましょう」と言われる。
「イヤだ」と言っても聞き入れられない。車椅子から動く左手を平行棒に伸ばし力をこめたら意外なほどすんなり立てた。「ほらね」。久々に目線が上がったが、喜ぶ間もなく右半身のあまりの重さにバランスを保てなくなる。動かない右上肢と下肢は鉄になったように重く、左足一本で何とか立っている感じ。時間にして4、5秒だった。「まずは第一歩、前進です」。
時間が許す限り左足で「立ち座る動作」を繰り返す。脂汗が湧いて出る。
「これがリハビリなんだ」と実感した。
病室に戻り「立ち座る動作」を続けた。初めて行った自主トレーニングである。さらにベッドの上から車椅子への応用運動を行った。何度か転んで、顔からフロアに落下したが左手でシーツを鷲掴みにし、根性だけで起き上がり続行。数日でベッドから車椅子への移乗ができるようになった。
すぐさまナースコールで師長と何人かの看護師を呼び、移乗を見てもらった。そのまま廊下を走らせ障害者トイレに向かい、便座に自力で移動〜車椅子に移乗する動作を見せた。「これでトイレ、ひとりで行っていいよね?」と言うと、師長は呆れるように笑って「検討します」。
空手形かも知れないと思ったが、すぐにカンファレンスでOKを取り付けてくれた。
(第五章につづく)