第五章 019 2 入院(3)
脳出血を発症し、一度神経機能が麻痺してしまうと元々の機能には戻れません。
元々を10とすれば5を6に6を7にという段階的発想が必要であり、あとは創意工夫で補完するという意識が大切です。不利な状況は意識次第で覆せるのです。また、回復期病院は概ね入院期間が限定されているため、どの身体部位の改善を優先させるかという決断も自ら行うべきです。
入院3ヶ月にもなると、もうすっかり古株患者である。他の患者はほとんどが入れ替わっている。回復期病院とはいえ無期限いられるわけではなく、5ヶ月〜最長半年以内が目安で早い人は1、2ヶ月でいなくなる。新たな受け入れ施設へ鞍替えする場合もあり、症状が完治して退院する人が果たして存在するのかどうかわからない。経済的、生活面の問題もあるのかも知れない。顔なじみの患者もそれなりにいたが、みんないつの間にかいなくなった。
自分もこの時点で入院許容期間の半分を過ぎている。職場にも復帰しなければならない。次の施設行って云々のような悠長なことは言っていられない。出した答えはひとつ。自分の責任でリハビリを見直し、悔いなく入院生活を終えること。病院は良くも悪くも守旧的・制度的な場所なので、一度決めた担当を変更するなどという発想もないし、施術内容に手を加えることもない。だから自分で具申するしかない。まずはST(口腔療法)を終了してもらい、その分の時間をフィジカルリハビリに回す。さらにOT(作業療法)、PT(理学療法)について療法士の担当変更を求める。
もちろん現担当の技量を疑うものではないし、馬が合わないわけでもない。担当療法士が不在の時に施術をしてくれた何人かの療法士を見、考え方を聞き、この人が自分にもっともフィットすると確信を持ったからである。
このセルフマネジメント、果たして認められるのか?
昨今各業界で徹底される働き方改革よろしく、この病院の総勢50名ほどの療法士は徹底した労務管理で仕切られている。人員配置の観点に立てばこちらの要望は無茶苦茶な言い分であり、わがままと切り捨てられてもおかしくなかった。新たな担当になってほしいとオファーを出したのは、「どっち利きですか?」と聞いてきたPT(理学療法)療法士で、発症後初めて私を立たせてくれた人だった。現担当に感謝しつつも、その人に賭けてみようと思ったのだ。院内は少なからずザワついたようだったが、ほどなく満額了承された。ST(口腔療法)中断も可、OT(作業療法)の交代も決まった。どうもすんなりいき過ぎている、と思っていたら・・・・・後日、師長が陰て動いてくれたと聞かされた。
PT(理学療法)療法士と改めて顔合わせをすると「僕でいいんですか」。「ここまできたら歩きたいけど、もううまく行く行かないは関係ない。この人と組んでダメだったらしゃーない、しゃーないけど、この人となら悔いはない。…という人とやって行きたいと思うから」。そしてもうひとり師長のためにも。ふたりに恥をかかせるわけにはいかない。
新しいPT(理学療法)療法士は柔和なベテランなのだが、どことなく孤高を匂わせ独自の施術を患者に合わせて行うタイプ、そこに魅かれた。もう2月も残りわずかとなっている。「4月には退院して社会復帰する」と公言した手前、後には引けない。けれども何の根拠も一縷の自信もない。ハッタリだった。
ところがこの療法士は凄かった。
伝えたのは「動かない右腕は棚上げ。それよりも、歩けなければ生活そのものが成り立ちにくい。だから残りの入院期間は歩くことに集中したい」。
まず杖や装具に頼らない方針を徹底。激痛一歩手前の足首マッサージと平行棒での歩行演習を繰り返した。他の療法士が遠巻きだが不安な顔を向けるほどだった。左手で平行棒の片側を握りしめ、右半身は抱きとめてもらいながら、一歩ずつ足を出した。すぐに体力の限界がやってきた。中断したくもあったが、抱きとめてくれている彼の額から汗が吹き出しているを見るとそうも行かなくなった。そんな毎日を繰り返した2月の終わり、いつものように平行棒の前に立つと療法士が少し離れた所に立っている。「まさか? 」と思ったら案の定「さぁここまで歩いてきてください」。・・・・・「ムリだよ」、「やってみましょう」、「ムリ」、「絶対に歩けます」。…歩数にして5歩、それだけで疲労困憊、身体を揺らして動悸に耐えるほどだった。それでも、「歩けましたね」、「やりましたね」と作業中の他の療法士たちが祝福の目を向けてくれた。
「歩けるようにはならないよ」と突き放されてから3ヶ月、とうとう歩けた。
肩で息をしながら「ざまあみろ」と思った。
そこからの歩行訓練の進展は早かった。5歩は10歩、20歩となり支持なしでリハビリフロアを一周(20m)できるようになった。何度か転倒しかけたが、持ち直す。頭の中、理屈ではわかっているが、一度死んだ足の神経は再生過程で踏みしめる床は全てが初となる。だからフロア入口のマットも踏み越えるには当初は危なかっしく大きな壁だった。
それでも「外、歩きましょう」で、ついに初めて病院駐車場のアスファルトを踏んだ。砂利道での訓練も欠かさず歩行距離も400mを越える。まだ通常の歩行姿勢には及ばず右上肢は筋緊張でコントロール不能のままだがとにかく前へ進む。全ては退院と社会復帰のため。
満を持して、(1)病棟廊下での単独歩行訓練、(2)病室からリハビリルームへの単独歩行(現状は車椅子)、(3)病院外構(敷地駐車場)の単独歩行訓練、(4)自宅、仕事場への一時外出・・・を主治医に願い出た。
しかし全て却下だった。「転倒しても自己責任であり病院には一切の責任を求めません」と一筆書きますとも言ったが駄目だった。「ゆっくり治していきましょう」とサラリと言われたが、「もう時間がないんだ」。
さすがにわがままの度が過ぎたかな、とも思った。
重々ガキっぽいとはわかっていたが主治医との間に大きな溝ができたのは確か。最悪強制転院になってもいいと思い、病棟で一番目立たない場所にある非常階段でひとり延々と昇降運動をした。これ見よがしに外構を歩き回るようなことはしなかったが、気持ちの中に「自宅はどうなっているのだろう」という焦りと「何故許可してくれない」という怒りが広がっていった。
しばらくすると折衷案が提示された。「杖を使用して介助人が同行すれば許可する」と。だが拒絶した。ひとりで歩くことこそに意味があると思っていた。
1ヶ月先には退院しなければならない。
「もう時間がないんだ」。
ここでまたしても師長と担当療法士が動いてくれた。
(1)病棟廊下での単独歩行訓練、(2)病室からリハビリルームへの単独歩行(現状は車椅子)、(3)病院外構(敷地駐車場)の単独歩行訓練について、これを許諾する。(4)自宅、仕事場への一時外出については、当地での受入れ者の特定と、ストリートビューでの勾配・障害物有無等の確認後、これを許諾する。そして全責任は私たち2名が負う、とのことだった。
この逆転劇は感謝感涙ものだったが、あと1ヶ月、ほとんど死ぬ気で歩かないと埒があかない。療法士はこう付け加えた。「僕らがどう意見をいったところで最終決裁はドクターです。ドクターからGoがでなければ僕らは動けません。色々行き違いはあったろうけど、ドクターにはドクターの思いがあること、心配していることを少しだけでいいですからわかってあげてください」。
(第六章につづく)