第八章 2019 4 社会復帰(2)
会社復帰と社会復帰は違います。私を含め多くは企業への依存度が強く、入院によるブランクが生ずるとそれがさらに増していきます。障害があっても可能な業務、逆に不可能な業務、あるいは復帰を待ってくれる会社、待たない会社、そして待ったふりをして復帰後に梯子を外す会社…それぞれあるでしょう。
手に職、経済的安定など事情は種々異なりますが社会復帰は会社依存から脱却するチャンスでもあるのです。目を凝らせば官民に新しい道がきっとあります。
もともとは転職先が決まっており、現職からは心が離れていた。
脳出血を発症しなかったら去年、久々の関西暮らしになっていたはず。だが関西で倒れそのまま一人で死んでいたかもしれない。倒れたのは勤務先に辞職の意思表示をする前だったので、なんとも複雑なカムバックとなった。
転職先からは「完治するまでお待ちしていますから」と言ってもらった。しかし長いリハビリとなるだろうため、保留の保留という申し合わせをした。
「とりあえず、年内リハビリやれるだけやってみます」。
とは言え、勤務先には4ヶ月の間、図らずも仕事に穴を開けてしまったことに対する贖罪の情と帰りを待ってくれたことへの一定の謝意もある。さしあたり恩を返さねばと思い、いきなりのフルタイム勤務を決断した。
脳出血およびその後遺症克服と原因のひとつである成人病のケアに対する世間の目は冷淡だ。自分自身、健常な時はそう言う人たちに少なからぬ偏見と誤解を持っていた。理解力、包容力とはほど遠い。自分はつくられた熱意の中でもがいていた。血圧は日を追うごとに上昇し続ける。
5月下旬、自宅で倒れた。
復帰2ヶ月…疲れていた。
仕事を終えた夜、急なめまいに足がもつれ、玄関を上ったところで後ろ向きにひっくり返った。壁と床に二度バウンドするように後頭部をぶつけ、生命線である左足をひねり、左肘まで強打するおまけつき。
また血管が破れたか…と思った。数時間そのままに、色々な記憶を脳裏に浮かべつつ時を過ごしたが、意識を失うこともなく肢体に感触もあり「どうやら生きてるな」と胸を撫で下ろした。すると今度は身体中の痛みがよみがえった。しかし恐怖ではなく安堵、「ああよかった。生きている」。
這いながらベッドにたどり着き、しばしの仮眠で翌日も出勤した。
これを乗り越えなければと気勢は充実している。しかし一方、もうひとりの自分が声を上げる。ここは去ると決めた場所だったのだろう? 命をかける場所なのか? 本当に命を削る場所なのか? お前、今度こそ死ぬぞ。
辞めるはずだった職場にいる矛盾が露わになろうとしていた。
業務や企業とのやりとりについては記さないが、月日が経つと創心會のリバビリや訪問看護をキャンセルすることが増えた。通院やリハビリのため遅出や早退をする度に軋轢が増し回復への思いが弱くなる。仕事第一主義は世代のせいだろうし、もう身体の機能回復はこのあたりでいいのではないか…とまで思うようになった。気持ちの面で職場と乖離し、短い期間に様々なことが起こった。心ある同僚など周囲は気に病んでくれた。どうすべきか?
ある出勤日につい気を失いしばらくしてようやく目が覚めたことをケアマネージャーに打ち明けると「もう辞めてください。このままだとまた倒れます。お願いです」と目に涙を浮かべてくれた。「命と会社のどちらを選ぶかなら…私は命を選んでいただきたいです。せっかくここまで頑張って来られたのだから」。「・・・・・わかったよ」。
ここまでの回復。立てたこと、歩けたこと、喋れたこと、記憶が戻ったとを奇跡と言ってくれた関係者がいた。自分もそのことに酔っていた。しかし大抵の人にとっての扱いは障害者になって帰ってきた男…それだけだった。その断層は誰にも埋められず、美談はあっけなく終わったのである。
社会復帰は難題だ。入院中も様々な話を聞いた。
…大手勤務で安心していたら復職した当日に県外関連会社営業所への辞令が出た。
…車椅子で復職したら事務職から車両部に回され真顔で「運転しろ」と言われた。
…病室に見舞いが届き、開けると解雇通知が出てきた。
など枚挙に暇がない。
しかしまぁ、そもそもそれが会社というものであるし、脳出血で後遺症ありとなるとさらに会社は本性を現出する。
あえていうが発症前の待遇に恋々とすることな
く、会社に諂わないことで見えてくるものもある。自分の周囲はどちらかというと復帰に温かったが、やはり長続きはしなかった。それはこちらの気持ちの充実以上に脳出血で後遺症ありの復帰には会社の気概が相乗することが不可欠だ
からだ。その点を中止すれば脳出血で後遺症ありだとしても社会で生きていく新しい道がある。
何よりもたゆまぬリハビリの充実こそが今の自分に必要なのである。ひとりではない。
もう現実から目を逸らさない。
(第九章につづく)